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「SARS」と「Spear-銛」と「Samurai-侍」
金光裕

「SARS」 

1998年から2005年まで私は台北にある建築・デザイン・文化をテーマにした二ヶ国語 のダイアローグ誌の編集長をしていた。そして2003年には台湾政府の交通省と広報部観光 局による二つの国際コンペを準備することになった。当時台湾政府は公共建築のデザインの質を向上させて、観光行政を促進しなければならないと考えており、この考えが台湾の四ヶ所の観光地における「ランドフォーム系列」と主要な五ヶ所の交通の要衝に対する「ゲート系列」の国際コンペの実施につながった。前者は2013年の11月に、後者は2014年3月までに完成することが決定された。初めは日本や欧米から建築家、研究者と建築批評家を招待して高いレベルの審査委員会を組織することだった。当時オランダ建築研究所-NAIの所長だったアーロン・ベツキー氏はこの招きに応じてくれて、東京での予定の後に台湾を訪問することになっていた。しかし折しもSARSが勃発し台北もその感染区域に入っていたために氏は急遽訪台を取りやめ、その代わり私が東京に行くこととなり、ともに審査を引き受けていただいた原広司氏と槇文彦氏を訪問してコンペの内容を説明することになった。

ベツキー氏は建築展などがよく行われる東京のAXISギャラリーで講演をおこなっていた ので、私は多少格好をつけてちょうどレクチュアが終わったあとのレセプションパーティーに間に合うように到着し、そこにいた建築家たちに合流した。團紀彦氏と出会ったのはそこでのことで、物静かで控えめで日本的な紳士という印象だった。私が話しかけると彼は礼儀正しくランドフォームのコンセプトについて、やはり物静かで控えめで日本的な態度で高く評価してくれた。数か月後に彼の提案を見たとき始めて本当にこの人は真剣にそう思っていたのだとわかった。團氏は「ランドフォーム系列」で日月潭の計画を、そして「ゲート系列」において桃園国際空港第一ターミナルの計画で一等を獲得した。彼がこれらの計画を完成するまでの十年の間、私達は幾度となく食事を共にし、また酒を酌み交わしながらお互いの国の文化や社会を批評したり、共通の関心事について語り合った。また共同で本を作り、シンポジウムを立ち上げ、そしてともに文章を書いたりもした。こうして私は彼との交友を深めることになった。ある時何処で我々が知り合ったのかと尋ねられると、彼の答えは「SARSがあったから」というものだった。

 

「Spear- 銛」

紀彦氏と私は文学、歴史と文化批評といったことが共通の関心事だった。奇しくも我々は、 建築の仕事の他に小説を書いていた。話をするたびにそれぞれの母国語に共通する漢字が役に立った。しばしば我々の英会話には東アジアの伝統とも言える「筆談」が多く用いられた。一年後に私はサイン入りの綺麗な青い表紙の本をもらった。私は日本語を解さないので中身は読めなかったが東京湾から300キロの所にある八丈島に流された19世紀のある犯罪者についての小説だった。紀彦氏によれば子供の頃過ごしたことがあるのでその島をよく知っているとのことだった。地図の知識をもとに島から脱出しようとするこの流人の話は映画にもなった。その頃私は4世紀の北西アジアの歴史小説-現在の北京から満州、朝鮮を含むエリアに帝国を築いた西洋人の血を引く慕容氏と呼ばれる遊牧騎馬民族の物語を執筆していた。一旦書き始めると誰も口を挟む余地など与えないのが私の流儀であったが、紀彦氏だけは例外で純粋に興味を持った様子で、彼だけは話を聞いたふりをするようなことをしなかった。彼は日本から様々な書物を見つけては持ってきてくれたので本の題名のインスピレーションにまでつながることになった。これには少し説明を要する。ある時紀彦氏は、日本は他の国々と同様に東アジア文化圏の一部であって決して孤立した国ではなかったと主張する反主流派の歴史家の本を届けてくれた。その本には慕容氏のことに一章が設けられていた。その歴史家によれば現在奈良の石上神宮に所蔵されている七支刀は慕容氏に起源を持つものであり朝鮮半島から日本に伝えられたものであると。このことは曖昧な国境があったがゆえに共存と文化交流を可能にしたコスモポリタン的世界がかつては広がっていたとする私の理解と一致するものだった。こうして私は本の題名を「七支刀の夢」と名付けることにした。共通の興味以外にも紀彦氏は趣味の領域でさらに幅広い知識と技能を持っている。彼は天賦の才を持つ海のダイバーであり、また素晴らしい料理人でもある。彼の週末はたいてい船を出して魚を取りに行くというものだ。穏やかな話し方からは想像もできないが、彼は恐ろしいを使う冷酷な海のハンターでもある。写真で見たウェットスーツを着た彼が抱えているのはたいてい身長の半分、体重の半分もある獲物だった。彼が遭遇した巨大魚との格闘は、「老人と海」の最後のシーンそのものだ。また彼は旅行の時は何処に行っても必ず漁港と魚市場に行くのが趣味で、いろいろな文化の違いによって魚の扱い方が違うといった話を仕入れてくる。ある日彼は私に厳かな口調である経験談を話してくれた。銛を撃とうとした瞬間に魚と目があってしまい、その魚を殺せなかったのだと。私達は同じ年回りなのでその話を聞いた時、それは歳をとった証拠で彼にとって銛はもはや道具ではなく夢の中の象徴となったのだと思った。

 

「Samurai- 侍」 

紀彦氏とは何年か話をしてきた間柄だったが、彼が時折ぽつりと話すことで驚かされることもたびたびあった。彼の先祖の話などもその一つで、曽祖父の故團琢磨氏は福岡の士族の 出で、やがて国家的に重要な人物となるがその生涯は明治維新から第二次世界大戦前までの日本の歴史の縮図そのものを描いた小説のようだった。父親の故團伊玖磨氏は日本の数々の歌曲を手がけた作曲家だったがその作品の中には私の好きな「宮本武蔵」という侍の映画音楽もあった。ある時私の日本の友人たちは紀彦氏と話をすると明らかに貴族の出自であることがわかるので少なからず躊躇いを感じることがあると言った。その反面むかし狐を飼っていたがなつかずに逃げて野生に戻っていった話や、ニシキヘビを飼い馴らそうとして喉笛を噛まれた時の話などを考えると、このノーブルな人物の中には原始人が潜んでいるのではないかと思った。紀彦氏は日本の2005年の愛知万博を準備した主要メンバーの一人だった。日本での開催が決まるとすぐに政府は環境重視型の原案を破棄して、森を保全せずに不動産開発型の提案に置き換える決定をした。紀彦氏は会場計画委員会で孤立しつつも、公然とその決定を批判した。私の見るところ、それ以来彼は国から問題児としてのレッテルを貼られてしまったのだと思う。そしてそれは協調性と服従を重んじる社会では致命傷であったに違いない。ところが日月潭と桃園空港ターミナルの計画中は、紀彦氏はそこで起きていることはほとんど私に話さなかった。しかし言葉の端々からは相当度の官僚制度との軋轢や建設に関する諸問題に直面していることが垣間見えた。それはここにいる地元の我々さえも挫けてしまうほど耐え難いものだったようだ。私は時にはシーシュポスが巨石を山に押し上げるときの話のように正直にいって彼の努力は徒労に終わるのではないかとさえ思った。しかし彼は最後まで諦めずについに二つのプロジェクトを賞賛に値すべき完成にまで導いた。

孔子の言葉に「為す所有れば、為さざる所有り」というものがあって何かに向けて実行すべきこともあれば、それを行なわない決意をすべきこともあるという意味だ。またその孫弟 子の孟子の言葉に「千万人と雖も、我は行くなり」とあり、すなわち何千もの人が行く手を 遮って反対していても正しいと思ったら前に進むべきだということだ。孔子の時代の「士」 とは日本で言うところの「Samurai-侍」と似ていて今日にも通ずるものがある。侍は戦に 強いだけではだめで教養を身につけて慎重にものを考え、物事に盲目的に従ったりはしない。彼らはやるべきこととやらざるべきことの見極めをつけ、一旦決心したらたとえ障害があっても引き返すことはない。愛知万博の際には、紀彦氏はたとえ社会全体が反対の方向を向いていても、それに与することをしなかった。そして台湾の計画においては寡黙に忍耐強く戦い続けて逆境を恐れなかった。ユーモアと冷徹さと情熱とともにつねに挑戦を忘れなかったのは、彼が真の「Samurai-侍」であったからではないか。

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